2010-12-17(Fri)
取手駅前の無差別刺傷事件に思うこと。
via: 時事ドットコム:「殺すつもりなかった」=数日前実家出て路上生活-27歳男供述・バス無差別刺傷
“自分の人生を終わりにしたかった”
相も変わらずこういうのがたまに出てくる。無差別刺傷。自分ヒトリで死ぬ勇気のないアホが赤の他人を道連れにする最悪のケース。今回死者が出なかったことは不幸中の幸いでも何でもない。巻き込まれた人間にとっては命こそ助かったものの、死を覚悟し体験したも同然だろう。事件そのものは秋葉原や土浦で起きた無差別殺傷事件と何ら変わらない。卑怯な人間が起こした何とも卑劣な行為だ。法的に許されるなら、例え死者が出ていなくとも、死刑を適用して然るべき犯罪だ。しゃくに障るが、人生を終わらせたいという加害者の望みを、すぐにではなく、執行までにゆっくりと時間をかけ、望んでいた死を迎える気分を十分味わわせて、その上でその望みを叶えてあげればいい。
今回もまた、他の事件と同様にいろんな考察がされることだろう。社会のあり方や人間のあり方、家族のあり方などあらゆる視点から加害者について論じられるだろう。まるで再放送でもしているかのように、同じ教授が同じコトを言うだろう。ワイドショーのコメンテーターはその場限りの無責任で偽善的なまるで中身のないことをつぶやいてお茶を濁すだろう。事件の背景に何があるのか。何故凶行に及んだのか。もちろん徹底的に調べられるべきだとは思う。しかし、“彼もまた社会の犠牲者なんですね”的なアホなことを言う真性アホが毎回必ず出てくる。そういうアホは、怒りよりも呆れ、苦笑、嘲笑の対象でしかない。しかし必ず出てくる。残酷な犯罪が起きるとホラー映画の影響に言及する類のアホとよく似ている。ほぼ同類と思ってイイ(笑)。
時代によって、社会によって、殺人事件の様相が変わるのは当たり前のことだ。犯行に至るプロセスは多種多様になってくる。しかし、残虐な犯罪や理不尽な無差別殺傷事件などは今この時代に限って起きているわけではない。入ってはいけない何かのスイッチが入ってしまう人間はいつの時代にもいるものだ。加害者を犯行に駆り立てた理由を社会に求めて、丸投げして、ハイ終わりなど、よくもそんな無責任なことが言えたもんだ。そういうことを言うヤツにはホント困ったもんだと呆れるばかりだ。何に困るか・・・わからないがとにかく困るし呆れる(笑)。
いずれにせよ、殺人を犯すか犯さないかは加害者本人の決断であり、それを防ぐことが出来るのは、ネット上も含め、まずは彼と接点を持つ人間ということになる。そこに位置する人間がいない場合どうするか。そこが、良くも悪くも“個”の時代であり社会である光と影の影の部分ということになる。“個”と“孤立”は本来全く違うものだが、今やその両者は同義語となりつつある。そこに家族や会社のあり方、そしてネット社会の功罪ってなハナシが絡んでくる。個の孤立はやがて歪んだ自我を形成し、規模のデカイ無理心中という大騒動を起こし、ある種の達成感なり自己満足を得ることでジ・エンド。加害者にしてみれば、巻き込んだ被害者は単なるドラマのエキストラでしかない。そして結果として、“誰でも良かった”などという戯言を生き残って言うことになる。そもそも死ぬ勇気がないわけだから、大量殺人としてのヒーローとしては確信犯とも言える。
要するに何が言いたいか。
いわゆる犯罪予備軍が潜在的に存在し、また日々そんな連中を生み出す社会になっているのは、昔に比べたら確かにそうかもしれない。人々は、他人との関わりの中で、今回のような加害者の犯行を無意識に防いでいるかも知れないし、無意識に犯行に走らせているかも知れない。だからといって、事件そのものの原因を一気にそんな社会のあり方にまで持って行くのは飛躍し過ぎというか、単なる手抜きでしかない。
殺人を起こしたのは誰か。その“個”に対して断罪することなく、“社会の責任”という漠然とした言い方で逃げるのは、それこそ卑怯だ。
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tag : 死刑制度
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