2011-08-10(Wed)
ただ燃やすことが目的になった五山送り火。意味あるのか?
via: 東日本大震災:被災地の松、一転使用--京都「五山送り火」保存会 - 毎日jp(毎日新聞)
“岩手の松を燃やせばいいんでしょ?燃やせば。はいはい、サービスして本数増やして燃やしてあげますよ。これで納得?”・・・ってな感じで保存会のホンネが聞こえてきそうなニュースだ。市への1000件を超える批判や世間の反響のデカさを受けるや否や、“やっぱり燃やします”という展開には、被災地だけでなく、全国民が呆れ果てているハズである。とりあえず薪を運んできて燃やせばいいというハナシじゃないだろ、と。
そもそもこのイベントを取り巻く組織の関係やそのチカラ関係がわからない。“五山送り火”というのを守る保存会というのがあり、それが集まった連合会というのがあるというのはわかるが、京都市長が“我々には決定権がないので・・”と嘆く程に、その保存会やら連合会というのは京都市とはまるで別格なチカラを持つ組織なんだろうか。さっぱりワカラナイ。マフィアと共存共栄みたいなやつの、ちっちゃい版なんだろうか(笑)。
批判が市に殺到し、市長が保存会にアタマを下げてお願いし、お願いされた理事長は“保存会内で検討したい・・・ただ、少し唐突な感じがする”と、この期に及んで困惑気味な態度、というのがどうもよくわからないのである。誰もが伝統を感じる京都という街は、そういう妙なバランスの上に成り立っている街なのだろうか。それに加え、“批判を受けてやっぱり燃やします”ということに躊躇を覚えないというその市や保存会の感覚に脱力するというか、情けないと思うばかりなのである。もはや“送り火”という精神的な意味など皆無なイベントになっている。岩手から松を運び、燃やすだけ、という単なる消化イベントでしかない。でっかい大の字の焚き火。
被災者ひとりひとりが様々な思いを込めてメッセージを書き記した、当初五山送り火で燃やされる予定だった薪は、“迎え火”として昨夜陸前高田市で燃やされた。その炎を見つめながら皆涙していた。京都の愚かなドタバタなど、まるで関係ない涙である。
結局のトコロ、“五山送り火”とは一体どこの祭りなんだろうか。“京都の祭り”などとは呼んではいけないような、かなり私的な祭りなんだろうか。そもそも保存会が保存しようとしているのは一体何なんだろうか。いっそのことその名前を“焚き火安全協会”にでも変えて、キャンプファイヤーのイベントに切り替えたらどうだ?アホ保存会のジジィたちよ。
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tag : 被災松
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