2010-11-08(Mon)
学校は企業なのか。
via: 小6女児自殺、いじめとの関連認めず…市教委 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
事件発生当初、学校はいじめの存在を否定。そして調査。2週間が過ぎ、一転していじめはあったとする調査結果を発表。しかし自殺のと因果関係については否定。
このプロセス、この展開、そしてこの結果。
学校もひとつの企業と化している。或いは政治の世界でも中身は違うが似たような展開をよく目にする。今に始まったハナシでもないかも知れない。それが世間に対して逆効果だろうと何だろうと、非は認めずの姿勢を貫き、ほとぼりが冷めるのを待つ。思い通り、この手のハナシは延々と騒がれることもなく、自殺という事実と遺族の無念さは人々の記憶に残ることなくフェードアウト。そしてまた次の自殺・・・。
遺族の立場からはともかく、こうして繰り返される学生の自殺を前に、世間は学校を糾弾すればいいとかそういうハナシではない。自殺という行為に辿り着く前に、本人の中に他の選択肢を持たせるのは、学校だけが果たすべき役割ではなく、それは当然ながら親もその役割を担っているハズだ。或いは暮らしている地域もひとつの責任を負っているのかも知れない。ただ、これは当事者以外の人間がアレコレ言うハナシでもないだろう。単純に悲劇と括るのもひょっとしたら無責任かも知れない。
この手のニュースを見ていていつも腑に落ちないのが、自殺した生徒とは到底面識すらなさそうな校長が常に会見の席でコメントすることである。学校で起きたことだ。その代表者、責任者が対応するのは当たり前かも知れない。担任教師を前に出すのは酷かも知れない。がしかしだ。奥歯に物が挟まったようなコメントを繰り返す学校長のコメントを聞いていると、教室の現場で起きていた事実が、どうも何重ものフィルターで覆い隠されているように感じてならない。それで学校が会見する意味があるのかといつものコトながら思う。学校としての非をそう簡単に認めるわけにはいかない、というお決まりのちんけなプライドからそろそろ脱したらどうだろうか。当たり前のことだが、全てのケースに於いて学校に非があるわけではないし、それはしっかりと調べればいいハナシだ。要するに、営利企業でもない学校が、まるで社内問題を隠蔽しようとする企業体質と化しているような印象を受けてしまうことが、結果として何ら学校にとってプラスになっていないということだ。恐らくプラスにする必要すら感じておらず、そこには政治家同様の保身という論理しか働いていないのだろう。
いずれにせよ、コトが起きてからの対応について、学校はもっと知恵を絞るべきではないだろうか。誠意云々というのはそこから始まっている気がするんだが・・・。
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